子どもが1歳になった

6月3日に息子が1歳になった。

怒涛のような一年だった、とでも書こうと思ったけれどそれもなんだかしっくりこない。たしかに新生児のときなんかは1日1日が大変だったのだけど、振り返ってみると赤ちゃんとの暮らしはかつて予想していたよりもずっと生活の一部として自然とそこにあった気がする。

私は出産前、子どもを産めば自分は「母親」という違う生き物になってしまうような気がして、それをすごく恐れていた。

「今までの自分の在り方や生活を捨て去って、子どものために全責任を負って生きる存在になるのだ。出産したその日から自分が死ぬまで。」と(そこまで言語化はしていなかったけれども)そういう風に感じて、必要以上に身構えていたように思う。

親になってみればなんのことはない、面白いほど私は私のままだった。食べることが好きで、服が好きで映画が好きで(育休の間にマーベル映画をアイアンマンから22作見て、ロッキーを5まで見て、イップマンを3作見た)、夫と日々の生活を楽しみ、たまにつるむ友人との関係も変わっていない。

しかし同時に決定的に変わってしまったものがあって、それは「息子という人間の存在を知ってしまった」ということに尽きると思う。

6月3日、まさに1歳の誕生日に息子は風邪を拗らせて入院した。幸い症状は重くなく、抗生剤が速やかに効いてくれたおかげで5日で退院できた。ただ、出産後初めて私は息子のいない夜を過ごした。

正直、何もする気にならなかった。何も食べたくない、眠れない。朝も体を起こせない。退院の目処がたつと少しは安心したが、それでもどこか落ち着かず仕事が手につかなかった。考えないようにしていてもつい息子のことが頭をよぎる。ちゃんと眠れているかな。ひとりで泣いていないかな。

今回のことで思い知ったのは、自分ひとりの時間を過ごしていても、息子がいなかった時の自分にはもう戻れないということだ。タイムマシンで息子が生まれる前の過去に戻ったとしてもそれはきっと同じで、ちゃんと眠れているかな、ひとりで泣いていないかな、と2019年の息子のことばかり考えてしまうだろう。

だから、私が何かに縛られているとすれば、それは自分自身の愛情みたいなものだ。そんなのはもうしょうがない。人と出会うということはそういうことだと思う。

息子がいる毎日は楽しい。楽しくて切ない。まるくてぱつんぱつんだった顔は少しシュッとして、少年のような顔つきになってきた。それが嬉しくもあり寂しくもある。不可逆な時間を生きていることを思い知らされる。ふわふわの頰の匂いを嗅がせてくれたり、肩に頭を預けて眠ってくれたりする今の時間はきっと宝物だ。一生の宝物をたくさんもらった一年だった。

そして私はこの一年、夫と協力して自分たちらしい生活を維持しながら、息子と楽しく過ごせたことを誇らしく思っている。今までの人生で最も誇らしい一年だったかもしれない。たとえばテレビを見せないとか、離乳食は全て手作りとか、世の中で言うところの立派な育児はできていないけど、「自分たちなりの育児」のちょうど良いラインを2人で探ることができた。(ずっとそのラインを探っている、探ることをやめない状態がいいのかもしれない)「私たち頑張ったね」と言えることが嬉しい。

息子はこれからきっとできることがぐんと増えていって、それに伴って私たち夫婦のタスクも増えて、今よりもっと忙しくなっていくのかもしれない。それでも来年の今頃また同じ感想を持てていればいいなと思う。

さてこれからの一年も頑張ろう、とまた肩に力が入りそうになるけど、「今日もかわいいね」を毎日積み重ねていければそれでいいのかもしれない。